ニワカ戦国オタが語る雑記

  無名だが、信長の野望のおかげが原因で有名になった人物って誰だろう・・・?














二階堂










まぁこの人思い浮かべるよね。
須賀川城主二階堂盛義。二階堂家の当主として蘆名家や田村家と戦い、いや戦いに負け蘆名家に従属した史実面でもいまいち振るわない人物である。そんな人物の妻なんてもっと無名・・・訳ではなく、二階堂盛義の妻・阿南姫は正真正銘の女城主として戦国の世を戦った人物である。
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二階堂家の栄光


阿南姫は1541年、伊達家で生まれた。父は東北の応仁の乱と言われている天文の乱の主役・晴宗。母は東北一の美少女と謳われ、略奪結婚という破天荒な経歴を持つ久保姫。伊達輝宗は彼女の弟にあたり、政宗からみると伯母の関係になる。

須賀川二階堂氏は15世紀後半ころから続く、名族であり伊達家とはかつて同盟関係にあった。天文の乱は伊達稙宗と嫡男・晴宗の政治方針の行き違いから東北のあらゆる大名を巻き込んだ大乱であり、二階堂家は稙宗側についた。しかしこの戦いの影響か二階堂家は国力を大きく落とすこととなり、盛義の父・照行の代には50村程度を領有する一国人衆レベルまで衰退していた。

当主の座を継いだ盛義は自身の得意分野である外交術を駆使して、伊達家との関係を模索した。この過程において阿南姫は盛義に嫁ぎ、永禄4年(1561)には長男を、後に次男を出産する。しかし戦方面では盛義はふるわず、隣国の田村家や蘆名家との戦いに連戦連敗。盛義は長男を人質とすることを条件に降伏した。

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だが、人事が万事塞翁が馬。蘆名家の次期当主であった盛興が若くして死去すると、跡継ぎのいなくなった蘆名家は一時的に混乱。盛氏は人質としていた平四郎に盛興の未亡人を嫁がせ蘆名氏の家督を譲った。盛隆の正室である彦姫は阿南姫の妹である。盛隆からすれば敵国に捕らわれの身でありながら、数え年15歳にして10歳年上の叔母と結婚しついでに敵国の殿様になるという、近年のライトノベルでも見ないような立場であるが、ともかく二階堂家は盛氏が永禄8年(1580)に死去したこともあって、蘆名氏の軍事力や経済力をほしいままにできる全盛期を迎えることになる。


妹・彦姫の苦難

が、栄光は長くは続かなかった。翌年盛義が病でまさかの急逝。その2年後には頼みの綱だった次男・行親も病死。二階堂家の全盛期はわずか1年ともたなかった。かつては15年で6回の徳政令を出すなど経済的に余裕のあった蘆名家も盛氏の晩年には陰りを見せ始めその支配基盤が揺らぎ始める。天正12年(1584)の9月に盛隆の嫡男・亀王丸が生まれるが翌月10月には「男色が原因で」小姓に殺害される事件が起きる。

こうしてわずか5年の間に蘆名・二階堂の両家は当主の男が立て続けに死亡し、阿南姫・彦姫という伊達家の姫が女性当主として領内統治する立場をとった。


弱い家は他国に滅ぼされるか支配されるのが戦国の習いである。侵略の魔の手はまず蘆名家に忍び寄った。
実質的な当主であった彦姫は始め兄の伊達輝宗の助力の下蘆名領の統治に当たった。が、それは嫡男が成人するまでの繋ぎとしての役目があったからである。亀王丸はわずか3歳で疱瘡で夭折、さらには輝宗が後述する事件によって死亡すると、佐竹家と伊達家との間で家督争いが起きる。



輝宗の死であるが、政宗の蘆名家掌握をかけた争いによる結果だと管理人は考えている。

天正12年(1584)父から家督を譲られた政宗はすぐさま、蘆名領を狙うような軍事的行動を起こしている。輝宗が行っていた対上杉への政治介入について、政宗は単独で上杉景勝と講和し、蘆名との同盟をないがしろにした。政宗は同時に正室の実家である田村家と大内定綱との戦いに関して兵を進め、定綱不在だった小手森城を急襲すると城内の兵どころか逃げ込んだ農民ごと撫で斬りを敢行。実際の人数は多くて700人程度だとされているが、政宗はこれを「3000人を殺した」と誇張し、他大名に対して見せしめとした。

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この凶行に怖気づいた定綱は彦姫を通じて政宗とのとりなしを求めたものの、政宗はすぐに蘆名領に侵攻し戦となる。蘆名家臣・穴沢俊光によってこの戦いは伊達軍の敗北に終わったが、続けざまに政宗は定綱と婚姻関係にあった畠山義継へ攻撃を加えた。
まさに武田信玄を髣髴とさせる全方向喧嘩外交である。輝宗は息子の失態の尻拭いをしたのか義継との和睦交渉に赴くが、政宗から提示された領地の9割近い召し上げに納得せず、殲滅覚悟で面会の席の輝宗を拉致する。
輝宗は「儂もろとも撃て」と叫んだとされているがこの記述は伊達成実著作の「成実記」によるもの。成実にとって政宗は主君であり同年輩の友であっただけに事実を述べて政宗の評を落とすことは記していない。となると、輝宗の死は蘆名を含めた南奥州支配の過程で邪魔だった政宗による壮大な計画だった可能性がなきにしもあらず。


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蘆名氏の滅亡


さて、蘆名家の家督争いであるが、政宗の弟・小次郎と佐竹義重の弟・義広の2人の候補があったが、前述の輝宗の死や、政宗の蘆名領侵攻から完全に彦姫は佐竹家を支持。自身の娘を義広に嫁がせ伊達家に対抗する構えを見せた・・・がついに指導する立場だった彦姫も天正16年(1588)彦姫が心労により死去。義広の補佐のために佐竹家から送り込まれた家臣団によって蘆名家は完全に佐竹家に乗っ取られてしまう。


政宗「自分の物にならないなら・・・いっそのこと滅ぼしてしまえ!

政宗は彦姫の死を知ると即軍事行動を起こす。蘆名と伊達の敵対原因になった大内定綱もこのころには伊達政宗に所属し、蘆名家を裏切っている。天正17年(1589)摺上原の戦いにおいては伊達家の猛攻によって蘆名軍は5000人の死者を出して敗北、義広はあえなく居城を放棄し父の元へ逃亡。こうして蘆名氏は滅亡する。
これだと義広が無能のように思えるので、彼の名誉のために言っておくと、この時点では義広はまだ15歳という幼少の身であり、軍事的にも政治的にもまだまだ未熟だったため蘆名家を統率することができなかった。白河・葦名と幼くして次々と養子を経験する道具同然の不遇の幼少期を過ごしたが、慶長7年(1602)、秋田領に入ってからは都市計
画の才覚を発揮し、下水道配備や火事対策のための武家地・町人地の町割、道路の幅員を広げるなど小京都と呼ばれる見事な武家町を作りあげている。

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角館観光ホームページより


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もうちょっと政治あってもいいんだよなぁ・・・何かと今川氏真を髣髴とさせる人物かも。




おんな城主の意地


この状況において阿南は妹の仇敵であり、弟の死の黒幕である政宗を憎み、常に伊達家に軍事的に対抗し続けた。郡山合戦では、佐竹・相馬連合軍に参加、摺上原の戦いでは、蘆名の敗残兵を須賀川の地に招いた。阿南姫は伊達家に備えるため自身の娘・岩城御前を岩城常隆に嫁がせた。岩城家はこの時代、佐竹家・相馬家とつながりが強く、彦姫と同じく婚姻関係を持って伊達家へ対抗しようとしたのだ。

流石に自身の伯母を手にかけることはまずいと思ったのか(ノッブに対する熱い当てつけ)、力攻めで須賀川を落とすことはせず阿南姫に降伏を勧めた。しかし、阿南姫はことごとくこれを拒否。
阿南姫は佐竹義重と交渉し、佐竹・岩城から援軍の兵を引き出すことに成功すると家臣たちを集め

父・晴宗や輝宗が築きあげた南奥州の平穏は憎き伊達政宗によって破られた。政宗の勢いは日に日に増長している。だが、これまで須賀川が大きな戦乱に巻き込まれることがなかったのは蘆名や佐竹の恩によるものである。蘆名が滅んだ今、やすやすと降伏としては仙道の諸将に政宗に反抗する者はいなくなるであろう。我もと思はむ者は私と命運を共にせよ。さもあらぬ者は今日を限りに降伏されるがよかろう。私は恨みには思はぬ。」

と家臣たちを鼓舞した。

(「今まで殿に深い恩があったな。城を枕に討死しようと思う者はここに残れ。そうでなければ恨みには思はないからここで暇乞いをせよ。」←よく歴史イベントの節目節目で登場するセリフであるが、この演説で「じゃあ辞めます」って言う日本人いるんだろうか?日本人の性格を逆手に取った悪習だと個人的に思っている)


二階堂軍は城代の須田盛秀を総大将として、須賀川城に籠城、なんとか伊達家の侵攻を阻むが、夕刻になって政宗の調略を受けていた保土ヶ原行藤が謀反を起こし、城内に放火。これが決定的となりわずか1日で須賀川城は落城する。

阿南姫は激怒、そして慟哭しかくなる上はと懐刀で自害しようとしたが、大勢の家臣たちに制止される。城主・阿南を助けだす時間を稼ぐため、須賀川城兵たちが最後の奮戦によって伊達軍に最終突撃を敢行、そのほとんどが討死するなか盛秀によって阿南姫は救出、伊達軍に保護された。こうして天正17年10月26日二階堂家は滅亡した。

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日本三大火祭りの松明あかしは須賀川城の戦いにおいて両家の戦没者を弔うために行ったのが始まりとされる。





エピローグ


政宗によって杉目城に移された阿南姫だが、ささやかな抵抗はまだ続いた。阿南は杉目城を脱出すると娘婿の岩城家に身を寄せた。これに対して政宗は報復として彼女に追っ手を差し向け、侍女や従者を殺害している。

しかしその後も御家騒動は続く。小田原征伐に赴いた岩城常隆はその陣中で病没する。常隆と岩城御前の間には幼子が一人いたが、佐竹家から義重の三男・貞隆が既に送り込まれていた。既に家中は佐竹家に掌握されていたこと、義宣が秀吉とコネクションもあったこともあって、家督は貞隆が継承。岩城御前と幼い政隆は岩城家を追われる立場となる。

岩城御前と政隆は伊達家を頼るが、阿南はこれに同行せずこれが母娘最後の別れとなった。岩城御前は伊達成実と再婚し子を一人儲ける、政隆は慶長12年(1607)に母と共に政宗に謁見し、岩谷堂伊達家を興している。

阿南姫は当主となっていた義重の嫡男・佐竹義宣の誘いも受けて佐竹家に身を寄せた。その後は佐竹家の秋田転封に従って北上の途についたが、故郷須賀川で病に罹り、そこで療養するも快方することなく逝去。享年62。彦姫の娘で、蘆名義広・佐竹義宣の室だった2人の娘は蘆名・二階堂の滅亡を受け入れ、再興運動も起こさなかったため、両家の名はここに途絶えた。


最後に
家系図をまとめてみた・・・
ぐっちゃぐちゃやぞこれ

阿南姫




「半蔵」と聞いて誰を思い浮かべるだろうか。


十中八九の人間は服部半蔵と答えるだろう。

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徳川家康に仕える伊賀忍者で本能寺の変では、家康の伊賀越えに随行し、伊賀忍者とのコネクションを通して安全に徳川家臣団を1人の死者も出さずに三河に帰還することができた。家康は彼の名前からあやかって江戸城の緊急避難の出口を「半蔵門」と名付けたことは有名な逸話である。

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だがごく少数の徳川マニアの人間ならこう答えるかもしれない。

「渡辺忠右衛門守綱」


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渡辺半蔵を思い浮かべたそこのあなた、それ以上の話は今回しません。ご了承を。
彼は服部半蔵と同時代に徳川家臣として活躍したもう一人の半蔵である。


服部半蔵

服部石見守正成(1542-1597)は徳川十六神将のひとり。十六神将とは、徳川家康の家臣のうち江戸幕府を開くのに大きく貢献した者たちを顕彰する呼称である。16という数は仏教の四天王+十二神将の合計に由来する。

一般に忍者として知られる服部半蔵だが、実際には部下として伊賀忍軍を指揮していただけで本人は忍者ではない。忍者と誤解される原因として父・保長が伊賀の豪族出身であり、上級忍者の家系だったためである。保長は始めは室町幕府に仕えるが、幕府の衰退から見切りをつけて幕府から離れ、当時三河で勢力を急成長させていた松平清康に仕官し、それ以来親子で松平・徳川の家臣として活躍している。

当時の忍者は成果の割に上司に評価されないいわゆる「ブラック」な職種であった。討死の危険性と隣り合わせながらも「猛将」「家中一の剛の者」名を挙げるチャンスもあった槍働きと違い、忍者は「先祖代々直伝の術を他者に伝えてはいけない」「他国に知られてはいけないのでどんな活躍があってもその功績を評価されることは無い」「抜け忍は一族殲滅に値する罪」と厳しい掟が多い。

そんな厳しい忍者家業を継がせたくなかったのか保長は子・正成を忍者としては育てず一武将として養育した。その甲斐もあって正成は「槍」を武器とする前線指揮として活躍した。足軽頭ではあったが家康の出陣した多くの戦いで槍を振るった。正成の愛用したとされる槍は現存するもので長さが2.5mという巨大なものである。その剛力と猛勇さから家中からは「鬼の半蔵」の異名をとった。

天正7年(1579)信康事件が起こり、信康が自刃に追い込まれると正成はその介錯を命じられる。しかし、切腹の際を前に正成は「三代相恩の主を斬ることは出来ぬ」と泣くばかりで介錯することができなかったという逸話がある(出典が三河物語のため創作の可能性あり)。ことわざ「鬼の目にも涙」の語源であるという説もあるが、はっきりしない。(正成38歳)

このころには正成は150人の伊賀忍者を統率する諜報部隊の長であった。天正伊賀の乱では織田信長率いる織田軍が伊賀国に侵攻し、戦闘員・非戦闘員問わず虐殺、朝倉一向一揆・長島一向一揆を超える数万人が犠牲となり、伊賀国の人口が1/3になったとも言われているが、徳川家は伊賀とコネクションがあった正成を通して戦乱に巻き込まれた伊賀の人々を助けだし難民として迎え入れたという。

天正10年(1582)、正成は伊賀越えに先回りして家康の通行ルートの伊賀忍者と交渉、家康一行は安全に通行し駿河まで帰還することができた。この出来事もあって江戸時代には忍者衆は伊賀同心・甲賀同心として幕府の警護や諜報活動を担当した。



渡辺守綱

渡辺守綱(1542-1620)も正成同様、徳川十六神将の一人である。正成と同い年の守綱だが、彼の家は松平の譜代家臣にあるにも関わらず出世しても足軽大将が精一杯の下級武士の出で官位も(自称含めて)なかった。
しかし徳川家の重要な合戦は全て参加し、大坂夏の陣まで従軍した徳川家全ての戦いを知る戦争の生き字引である。家康元服から、最後の最後まで家康が経験したすべての戦いを見届けた人物は守綱ただ一人である。
(大坂の陣の際に現役だった人物は他に本多正信・板倉勝重がいるが、彼らは槍働きでなく外交・治安維持で活躍した人物である。)

初陣は1557年の水野信元との戦いだが、彼の武功で有名なのは永禄5年(1562)三河八幡との戦いで今川軍に破れ周りの部隊が敗走するなか、守綱は最後尾で踏みとどまって奮戦し、被害を最小限にとどめた。この活躍から家康は「槍の半蔵」と彼を大いに褒め称えた。

しかし永禄7年(1564)三河一向一揆がおきると、守綱は先祖代々浄土真宗を信仰していたこともあって一揆側について家康に刃を向ける立場となる。一揆側には本多正信や、後の利根川工事や江戸開発で有名な伊奈忠次も参加しており、家康を大いに苦しめた。最終的に一揆側は敗北したものの家康は一揆に与した家臣を罰するようなことはせず、帰参を許した。守綱含め三河武士の「殿とのご縁は50年だが、仏様とのご縁は未来永劫」という熱心な信仰心に家康が挫けた形かもしれない。

(「切腹する」と言った家臣に対して家康が「できもしないことを易々と口にするか」と説教したところ、家臣はその場で切腹してしまったという事件があったりする。家康の寛容さ我慢強さは三河武士の頑固さに鍛えられたのかもしれない)

その後の守綱は足軽頭として家康が参加したほとんどの戦いに従軍、長篠の戦いでは山本勘助の嫡男を討ち取っている。前線指揮官だけあって大将よりも状況判断・物見にも優れ、掛川城攻めでは朝比奈泰朝の挑発部隊を囮だと見破り、三方が原の戦いでは野戦を提案する家康に対して不利だと進言している。

文禄の役においても守綱は鉄砲隊を率いて従軍した。前田家の兵士と徳川家の兵士が井戸の所有権に関するいざこざがあり一触即発!となった際には、守綱は速やかに部隊を動かし前田家よりも先に屋敷を包囲して威嚇したという記録がある。



それぞれのその後

関東入国後、正成は8000石、守綱は3000石を与えられた。この差は正成が槍働きに加え、諜報の要である忍者の統率する立場として正成に多めの石高を与えたのかもしれない。過去に守綱が一度は主君に刃を向けたことを恥じて高禄を求めなかったのかもしれない。正成最後の活躍は小田原征伐であり、慶長元年(1597)に亡くなる。服部家の当主と半蔵の名前は嫡男の正就が継ぐ。

正就は関ヶ原の戦いにおいて大関資増・岡部長盛らと共に結城秀康指揮下で関東の抑えとして警護に当たっている。しかし、正就と伊賀同心との行き違い(伊賀同心にとって服部半蔵はあくまでも与力としての関係であり、正就が同心組を家来のように扱っていたことに対する不満があった)から騒動になり、詮議を受ける立場となる。幕府の詮議は正就側が勝利するものの、この騒動中に正就が私用外出中に足軽を一人斬殺したことで幕府の心証が悪くなり(この事件でも、殺された足軽側には統合失調症を患っていた可能性があり事実上の斬り捨て御免(正当防衛)が認められるが、無断外出が問題となった)改易を申し付けられる。

正就はその後「過去の過ちを精算し、武功に励む」として大坂の陣に従軍するが、天王寺口の戦いにおいて毛利勝永隊の強襲を受け、そのまま行方不明になる。遺体も見つからないまま死亡扱いとして葬儀が行われ、弟の正重が継いだほか、正就の子・正辰が分家を興し、それ以降両服部家は桑名藩に仕えている。

守綱は慶長5年(1600)長年、足軽頭として指揮した功績を賞せられ1000石加増さらに騎馬部隊30人と常備兵100人の組頭となった。慶長13年(1608)には尾張藩主となった徳川義直を指導する立場として平岩親吉と共に付家老に転じ、武蔵国比企4000石・三河国寺部5000石・尾張国岩作5000石を与えられた。大坂の陣では70を超える老齢ながら尾張徳川家の当主義直の指揮を補佐する立場として従軍した。

それから5年後の元和6年(1620)、戦国時代の全てを見届けたかのように名古屋で死去。享年79。
彼の死後子孫の渡辺家は分家や新しく大名に列せられるなど度々幕府に優遇されている。










引用元
http://tomcat.2ch.sc/test/read.cgi/livejupiter/1512366760/0

1:風吹けば名無し:2017/12/04(月) 14:52:40.77 ID:70LG5fJH0.net
有能

4 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 14:53:02.64 ID:b7/8JQsHH.net
優秀

5 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 14:53:23.96 ID:pYzw3VV1d.net
これは有能

9 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 14:54:05.07 ID:fxmHCrkY0.net
海遊館の開業前に名称を一般募集したが、そのほとんどが全国の水族館でありきたりな「マリン~」のような類で、「海遊館」は1票だけであった。
票の多い「マリン~」に決まりかけた時、名称選定委員会の一員であった上沼が「(当時インテックス大阪で行われていた)夢工場というイベントが大した内容でもないのに
異常な盛況となったのは、『夢工場』と聞くと頭に漢字が3つ印象に残るからである、水族館の名称として全国にいくらでもある『マリン~』ではなく
インパクトのある『海遊館』にした方が当たる」と述べて反対し、最終的に「海遊館」に決定した。

はえ~
 

204 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:13:55.46 ID:eig+d3qiM.net
>>9
一票だけのに決定させるとか政治力高杉やろ

219 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:16:38.89 ID:Wiy5XXmQF.net
>>9
これは有能独裁者は 

248 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:23:11.09 ID:GRH19bcD0.net
>>9
そこらのコピーライターより優秀やな 

707 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 16:29:26.91 ID:Ws5tF9rld.net
>>9
夢工場ボロクソで草

21 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 14:56:06.81 ID:jhW6mlM9d.net
?「大江戸線」「首都大学東京」 

52 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 14:58:06.91 ID:C++VuenfD.net
>>21
これは郎外 

367 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:36:22.45 ID:Du8ORRl7a.net
>>21
都立大学時代に入学した人が出身校名乗るの躊躇しててかわいそうや

468 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:52:24.85 ID:xzIMlbIx0.net
>>21
石原を批判する教授連中が多い都立大学への嫌がらせだからね しょうがないね
 
35 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 14:57:05.12 ID:ON10cLFXa.net
アクアマリンふくしまディスってんのか???

45 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 14:57:43.40 ID:zDqs4+dEd.net
それに比べ大平サブローは

53 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 14:58:14.52 ID:v3bqd8CA0.net
上沼はm1のマヂカルのとこ見ても、有能なのはよくわかる。

81 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:00:57.27 ID:sRLJeXtEp.net
上沼恵美子より面白く喋れる女おらん

82 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:01:01.29 ID:bwuSqDjO0.net
ちなみにワイの近所の盛り場にはゲイ遊館って名前がついとるで

95 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:02:02.89 ID:MWiBKTKMd.net
ぽまいらが昨日から急に上沼ババアに手のひら返してるのは流石にワロタ

102 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:02:55.45 ID:hiQojsed0.net
>>95
なんJでは昔から定期的に淡路島実効支配スレとか立ってたやん

122 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:05:00.91 ID:2pJVg6Vqa.net
私は好きじゃないとか
全国ネットで若干言葉選んでる感じすこ


129 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:05:37.19 ID:gN2kLSPQ0.net

昨日のマジカルラブリーはマジで上沼に感謝すべきやったわ

素人のワイですら断トツで最下位やなー こいつらよく決勝まで行ったわ思っとったのに
上沼が代弁してキレ芸見せたから、視聴者が擁護目線に変わったやろ

打ち上げ会でも上沼のせいで辞める直前まで考えたとか言っとったけど
完全にガイジやわ 土下座するくらい感謝せーや

148 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:07:18.69 ID:YzMFRmOna.net
>>129
ツイッターで大恥かいたとか愚痴っててちょっとなあ…

149 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:07:26.02 ID:kcUNQ99Q0.net
>>129
あれで記憶に残るんだしな
微妙な点数で早々に消えていくより上沼美恵子に怒られる方が何十倍も得や

356 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:35:18.71 ID:srTUHAg10.net
>>129
あれでなんもなかったら滑っただけで終わりやからな
いきなり筋肉見せたりガイジすぎやわ

186 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:12:11.74 ID:nqc7Oak0d.net
支配者支配者言われてるけどただの独立国の官房長官やぞ
moRLv5I


200 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:13:35.01 ID:Y8PdTCDQ0.net
>>186
初っ端からやべーこと言ってて草

217 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:16:24.35 ID:3AwG+AYV6.net
>>186
最初から最後まで草

228 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:18:25.02 ID:RkO0xJNOd.net
>>186
これ上沼恵美子が考えた文なんか?
めちゃくちゃおもろいやん
229 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:18:38.11 ID:NMpn2SFu0.net
>>186
庭の手入れって言い方が貫禄ありすぎる

281 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:27:14.42 ID:GRH19bcD0.net
>>186
凄いな
やっぱキレッキレの文章書くやん

238 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:20:24.44 ID:Nsc+NgcYM.net
とうきょうスカイツリーラインとか言うクソダサ名前より酷いもんはそうそう無いからセーフ

245 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:21:24.37 ID:009ziLYFM.net
>>238
はい、アーバンパークライナー

276 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:26:59.98 ID:sV5TaMJTd.net
これと同じくらい有能


「東京タワー」の名称は完成直前に開かれた審査会で決定した。
事前に名称を公募し、最終的には86,269通の応募が寄せられた。
一番多かった名称は「昭和塔」(1,832通)で、続いて「日本塔」「平和塔」だった。
他には当時アメリカとソ連が人工衛星の打ち上げ競争をしていたことから「宇宙塔」、皇太子明仁親王(今上天皇)の成婚(1959年)が近いということで「プリンス塔」という応募名称もあった。
しかし名称の査会に参加した徳川夢声が「ピタリと表しているのは『東京タワー』を置いて他にありませんな」と推挙し、その結果1958年10月9日に「東京タワー」に決定した。
「東京タワー」での応募は223通(全体の0.26%、13位[49])であり、抽選で神奈川県の小学校5年生女子児童に賞金10万円が贈られた。


293 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:28:22.11 ID:3AwG+AYV6.net
>>276
有能すぎる

300 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:29:10.31 ID:T78Uurckd.net
>>276
昭和塔~オカンと僕と、時々オトン

329 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:31:47.78 ID:ZyOzUQnk0.net
>>276
民主主義マジで糞やな
多数決が役に立たないモデルケースや

325 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:31:25.63 ID:7U0t6ANI0.net
関西圏は横山ノック、西川きよし、上沼恵美子が三分割統治している


337 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:33:19.81 ID:3x9vydrDa.net
加藤紗里騒動の時の番組で
上沼「散髪したん?」
狩野「三発した?あ、いや・・・

359 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:35:37.05 ID:oreYUZKmd.net
>>337
それほんと笑ったわ

しばらく女遊びしないって言ってたのにその頃もしてたし上沼を騙したんやな

363 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:36:06.97 ID:JcB/DRrH0.net
>>337
それクソ笑った
狩野のこともお気に入りぽかったけど
もう見切ったんやろか

373 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:37:05.70 ID:aFeQuXu6d.net
>>363
この間えみちゃんねる出てたぞ

351 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:34:44.38 ID:a/b5aU9S0.net
淡路島に飽き足らんと箕面市の勢力争いを西川きよしとしてるらしい
キダタローは殺した

358 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:35:34.63 ID:D1TNIj2x0.net
>>351
キダタローは殺したで草

354 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:35:04.97 ID:38ESvNATM.net
M-1あると毎年上沼でレスバトルしとる気がする

377 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:37:34.34 ID:3dlThldBd.net
尼神の渚に殴らせてみたい

404 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:41:32.62 ID:TxqbBXXT0.net
東京進出していれば
紳助・さんま以上に巨大になってたかもしれんな
女で天下取れるのは、上沼ぐらいやわ

487 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:56:36.49 ID:RkO0xJNOd.net
だめんずマニアよなあ無能を置いてイエスマンにする松本とはまたちょっと違う気持ち悪さがある

555 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 16:08:06.19 ID:J9GQRQEJd.net
関西人は上沼恵美子で精通を迎えるってマ?

562 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 16:09:20.00 ID:ZlYZzruQ0.net[3/3]
>>555
拷問やめろ

578 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 16:11:43.89 ID:Icn77RcAd.net[2/2]
>>555
山田花子や 
 
575 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 16:11:28.46 ID:IocQSyvG0.net[1/5]
やすともにハイヒールに千里万里
関西の漫才師の魂は脈々と受け継がれるんやねえ


608 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 16:15:25.11 ID:pS9kNlE00.net
>>575
やすよともこの後ろが微妙やな
アジアンとか尼神インターて
尼神インターのヤンキー姉さん好きやけど

623 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 16:17:20.63 ID:IocQSyvG0.net
>>608
言われてみればそうやな
アマ号はやすともぐらい貫禄出せたらいけるかなとは思う

627 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 16:18:14.00 ID:CWBiHJIh0.net
>>608
アジアンがね・・

628 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 16:18:27.07 ID:ZRNiH0E5d.net
現在西川きよしと箕面取りで合戦中

682 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 16:26:21.51 ID:OBK3efbE0.net
えみちゃんねるにマジカルラブリー出たら絶対見るわ

685 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 16:27:04.97 ID:PvRCMzGrd.net
>>682
上沼のことやから絶対出すわ
そこでの向こうの反応次第で出てくる頻度が変わる

693 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 16:28:00.79 ID:XCRFI8UC0.net
ナイツとサンドの漫才は恵美子のお気に入りやな
あとU字工事もよく呼んでる印象
なお福田が説教される模様

427 :風吹けば名無し:2017/12/04(月) 15:45:10.89 ID:qa2+70YDa.net
上沼で耐えられないやつとか初期のピリピリしたm-1見たらどうなるんや




【悲報】ニワ歴管理人、まとめカスに魂を売る。その行為、鬼畜の所業下衆の極み。

個人的な感想

漫才の歴史は5つもしくは6つの世代に分かれていて今は第5世代が終わり、第6世代の始まりなんじゃないか?って言われています。第5世代は爆笑オンエアバトルから始まり、笑いの金メダル・エンタの神様・レッドカーペット・あらびき団といった既存の漫才の形式に頼らないかわりだねの芸人が増えました。

多数あったお笑い番組の放送終了で、漫才コントは原点回帰とは言わないまでもしゃべくり系が再評価されつつあるのかなぁと思います。月曜日にはまた女版M-1が放送されるようですが、普通にアジアンが優勝して終わりそうだなという予想。「隅田の婚活費用調達」なんて言われそうですが。

酒はいつの時代においても薬であり毒でもある。薬としての利用は消毒用としての酒は元より、薬用酒としての利用や、ハレの日には必ず酒が振る舞われる。酒を通したコミニュケーションはある意味日本の文化と言えるかもしれない。
一方で害もある。古事記においてスサノオがヤマタノオロチ討伐の折に、酒で酔わせ眠らせてから首を斬りおとしたという伝説や、本能寺の変の前日「信長(酒が飲めない)が光秀(酒が飲めない)に酒を強要し、周りの家臣が場を収めた」という逸話があるように、酒によって失脚したり・命を落とした権力者は数知れない。

酒は平民階層にも愛飲された。ただ貴族階級のようなお酒の付き合いや宴席で飲まれるものではなく、多くの場合辛い日常を忘れ去るための「悪酒」いわゆるヤケ酒として飲まれることが多かった。それは昔の話でなく今の日本にも言えることである。






「虚無」の酒、辛い浮世を忘れ去るための酒というのは些かネガティブだが、こんな風刺画があるんだからしょうがない。






いらすとや






ストロングゼロは現代において「悪酒」と言えるかもしれない。












安くてアルコール度数の高いお酒が労働者階級に好まれるのは当然の事。だが、昔はこの悪酒を飲むことは命を落としかねない危険な行為であった。では、昔の人たちはどんな悪酒があったのだろう?2つ例を紹介してみることにしよう。







(1)ジン横丁


18世紀、イギリスは産業革命の真っ只中にあった。工場制機械工業(世界史で嫌というほど習いましたね、何に役立つんだか)によって農村部から都市部へ人口が流れ、生産力の著しい成長と引き換えに労働者の衛生環境は悪化の一途をたどった。この時代の労働者階級は15歳ぐらいの少年でも1日の20時間重労働を強いられていた。当然休日は無し、現代に換算すると月の残業時間が300時間を超えなければ超ホワイト!とかいう完全なディストピア社会であった。加えて「環境破壊は楽しいZOY!」と言わんばかりの排ガス、工場廃液によって空気・水・食べ物すべてが汚染され、テムズ川は魚の住めないような毒の川と化していた。元々欧州の河川は硬水であり飲料にも工業用の水にも使えない。当然人々は地下水をくみ上げて利用していたが、工業発達によって大量の地下水を必要とした結果、飲料として安全なのはアルコールだけ!という状況に陥ってしまった。

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こうなっては安全な水にありつくことができない平民階層の人間は老人から赤ん坊までアルコールを日常的に摂取しなければならず、慢性的なアルコール中毒が蔓延した。事実当時ロンドンの平均寿命は新生児死亡を抜いた場合でも40歳程度(同時代の日本は60前後)と非常に低い。17世紀の終わりにオランダから持ち込まれたジンは、当時高騰していたビール・林檎酒に変わる労働者階級の酒として爆発的な流行を見せた。ジンは他の酒に比べて安価な割にアルコール度数が高い。1日の終わりに1本・・・だけなら現代のストロングゼロと同じで問題なかったであろう。しかし前述したとおり当時のロンドンには安全な水など存在しない、ジンしか飲み物が無かったのだ。



結果、街がどうなったのかというと・・・







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泥酔によって赤ん坊を落としても気づかない母親、ガリガリに痩せたホームレス、赤子の死体を串刺しにするコック、2階の一室で放置される首つり死体・・・



どうみても、完全な世紀末です。本当にありがとうございました。
「ジェノサイバー」に描かれたような世界の終末一歩手前のような様相を呈している。
ジン中毒が低所得者層に広まった結果、寿命の短さに拍車がかかり、自殺・犯罪率は急激に増加。
当時の有名な画家ホガースは2枚の銅版画を通してジン依存症に対する警鐘をならした。

どうすればいいのかというと







ジンがダメならビールを飲めばいいじゃない!


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ジンの危険性をアピールしビールの飲料を推奨した。だが、ビールが高騰したから安物のジンが流行したわけだし、根本的な解決がなされていないと思うのは私だけだろうか、後平和にビールを飲んでいる人達がいるが、左のおっさんとかビール腹で健康的とは言えない。てかビール飲みながら仕事してんじゃねーよ!




"Gin Kane"と"Beer Street"、2枚の絵を通してアンチ・スピリット(禁酒)運動が成功すると思ったのか、当時の上流階級は「労働者に悪酒が流行するのは労働者の道徳がなっていないからだ」と本気で考えていたらしく、市民のジン中毒は19世紀後半になってもなかなか改善されなかった。ただジンは悪い酒だというミームが生まれたようで19世紀のロンドンを舞台とする作品において、主人公はジンを一切口にしないし、乞食や敵がジンを愛飲する場面というのは一種のお約束となっている。


(2)メチルアルコール



時は戦後、混乱中の日本において、飲料用の変性アルコールが出回った。当時の貧乏な日本では市場に十分な量のエタノールを供給することができず、闇市でメタノールを混ぜて販売したり、自家でアルコールを作ろうとするものがいた。

メタノールは体内で分解するとシックハウス症候群の原因物質であるホルムアルデヒドを経て、ギ酸になる。このギ酸は体内のミトコンドリアの代謝能力を阻害し、神経伝達に異常をきたす猛毒である。仮に中毒死を免れても、失明の危険性がある。
目が見える仕組みは、網膜に含まれるレチノールがレチナールに酸化され、これが伝達経路となって「光が当たった」と感じるのだが、メタノールを摂取するとレチノール酸化に使われる酵素をホルムアルデヒドが不可逆的に破壊し、失明してしまうのである。(レチノールはタンパク質のβカロテンの分解によって得られる。栄養失調によって網膜内のレチノールが不足し目が見えなくなってしまう病気が夜盲症である)

戦後の混乱下に酒造禁止や変性アルコールを厳しく取り締まる取り決めなど存在しない。当時大量の酒を飲むということは「誤ってメチルアルコールを飲んでしまい失明する」かもしれない危険性があった。「目散るアルコール」なんてよく言ったものだ。
以下はその危険性を知らずに酒を飲む風刺漫画である。


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まとめ:お酒の飲み過ぎには注意しましょう。



怖い絵 死と乙女篇 (角川文庫)
中野 京子
角川書店(角川グループパブリッシング)
2012-08-25




サザエさん (1)
長谷川 町子
朝日新聞社
1994-09-01










2017-11-24-19-39-51

土居清良(1546-1629)は伊予国の国衆であり西園寺十五将の一人。

西園寺十五将は、伊予国の戦国大名西園寺家に仕えた家臣のうち精鋭15人・・・という訳ではなく、江戸時代国土調査に赴いた伊達家が、西園寺家の旧領を調査し、15の支城とその城主がいたことが判明したことに由来する。








そのうち土居氏は大森城を守衛した。先祖は紀伊国南部にルーツを持ち、祖父清宗の時代には西園寺の被官として大友氏や一条氏の四国侵攻を阻む武功を挙げていた。
永禄3年(1560)大友氏の攻撃によって清宗の居城は陥落、清宗を始め一族郎党はこの戦いで戦死する。清宗の正室・妙栄は落城寸前に15歳の清良を呼び寄せ「そなたは一族の頼みである。一条家を頼り必ず土居家を再興せよ」と言い聞かせると、清良は一族で唯一戦死を免れ、かつての敵であった一条家の領国・土佐中村に落ち延びる。






西園寺家と一条家は敵対関係にあったが、清良はルーツの異なる土居氏の当主で、当時一条家の家老であった土居家忠(宗珊)の保護を受けた。

永禄5年(1563)清良は再び故郷、三間に復帰し大森城主となる。この時代、一条家の当主・一条兼定は大友家と婚姻同盟を結び、伊予国支配を据えた西園寺領への軍事的圧迫を続けていた。清良は自らの領国を守り抜くため、様々な策をめぐらしていく。

・甲賀から鉄砲鍛冶を招き、常備兵に銃を配備させた
・元武士で農学者・松浦宗案を招き農学研究に務めた

当時から火縄銃に対する将来性は多くの戦国大名が目をつけていた。しかし当時の部隊の銃配備率が10%~20%あれば優秀な部隊と言われてた時代、清良の軍における銃配備率はなんと100%。これは全戦国武将中トップである。三間は3つの村からなる2000石程度の小さな領地であり、率いる兵も300人から500人程度であったが、巧みなゲリラ戦術と銃装備によって兵数が10倍以上の大軍とも戦うことができた。

また、農学方面でも目覚ましい才覚を発揮した。自ら田畑を耕し、その年の稲の実り具合を調査した。また、実り具合から臨機応変にその年ごとに稲の収穫時期を農民に指示した。あえて収穫時期を早めることで、刈田による被害を防いだり、農民兵を増やして他国の軍に備えることができた。また飢饉の際には米倉を開放し、領地から餓死者を出さないように務めた。清良の農業に対する取り組みは後に日本初の農学書である「清良記」にまとめられることになる。



その武名は四国どころか本州にも轟き、中国を代表とする戦国大名・毛利元就も清良を高く評価し毛利氏の援軍として中国地方を転戦した。


毛利









時しばらくして














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永禄11年(1569)一条家の家老・土居宗珊が一条兼定に誅殺される事件が起きる。
この事件は、ある村娘に一目ぼれし政務がなおざりになっていた兼定に対して宗珊が諫言したところ逆上した兼定に上意討ちされ、一条家の行く末を案じた一条家臣らがこの事件を機に兼定を主君押し込めしたと言われている。しかし宗珊は長宗我部家からの調略を受けていたともされ真相ははっきりとはわかっていない。




とにもかくにも家臣の信用を失った兼定は失脚、大友氏を頼り一時亡命するが、天正3年(1575)には大友氏の助けを借りて再度土佐国に侵攻する。長宗我部元親はこれを迎え撃ち、わずか1日で一条軍に勝利する(四万十川の戦い)この戦いで、長宗我部家は土佐一国の平定に完了し、西園寺領は今度は長宗我部軍の侵攻をうけることになる。

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長宗我部家は半農半兵の武士・一領具足の下に運用された強力な組織で「死生知らずの野武士なり」とも称される。しかし十数回に及ぶ長宗我部と清良との戦いにおいて全て退け、岡本城の戦いでは長宗我部元親の家老である久武親信を討ち取っている。

天正12年(1584)主君・西園寺公広が長宗我部元親に降伏。翌年には豊臣秀吉の四国攻めによって小早川隆景に降伏。岡本城の戦い以降、清良が守る三間の地が戦乱に巻き込まれることは無かったが天正15年(1587)公広が秀吉家臣に暗殺されたため西園寺家が滅亡する憂き目に遭うと、清良は主家への恩から隠居し帰農する。

清良の武勇・知略は天下に知られており、小早川隆景は「清良を五か国の大将にすれば天下を統一できる」と褒め称えた。当時の宇和島藩主であった藤堂高虎は度々清良に仕官の誘いを出したが、清良はことごとくこれを断っている。戦乱の世において故郷の平和を守るために戦ってきた清良にとってもはや武力による統治は必要としていなかったのかもしれない。その後も清良は一百姓身分として江戸時代まで生き、泰平の世になって久しい寛永6年(1629)84歳で亡くなった。

彼の死後、子孫や家臣らの申請によって京都から「清良明神」の神号を与えられ清良神社に祀られた。
名だたる戦国武将を相手に故郷を守り抜き、領主の立場を捨ててまで領民たちと生きることに決断した武将。彼の生き様は本当の意味で「殿」であったのではないだろうか。







土のさむらい (くもんの児童文学)
岡本 文良
くもん出版
1996-12-01



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