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土居清良(1546-1629)は伊予国の国衆であり西園寺十五将の一人。

西園寺十五将は、伊予国の戦国大名西園寺家に仕えた家臣のうち精鋭15人・・・という訳ではなく、江戸時代国土調査に赴いた伊達家が、西園寺家の旧領を調査し、15の支城とその城主がいたことが判明したことに由来する。








そのうち土居氏は大森城を守衛した。先祖は紀伊国南部にルーツを持ち、祖父清宗の時代には西園寺の被官として大友氏や一条氏の四国侵攻を阻む武功を挙げていた。
永禄3年(1560)大友氏の攻撃によって清宗の居城は陥落、清宗を始め一族郎党はこの戦いで戦死する。清宗の正室・妙栄は落城寸前に15歳の清良を呼び寄せ「そなたは一族の頼みである。一条家を頼り必ず土居家を再興せよ」と言い聞かせると、清良は一族で唯一戦死を免れ、かつての敵であった一条家の領国・土佐中村に落ち延びる。






西園寺家と一条家は敵対関係にあったが、清良はルーツの異なる土居氏の当主で、当時一条家の家老であった土居家忠(宗珊)の保護を受けた。

永禄5年(1563)清良は再び故郷、三間に復帰し大森城主となる。この時代、一条家の当主・一条兼定は大友家と婚姻同盟を結び、伊予国支配を据えた西園寺領への軍事的圧迫を続けていた。清良は自らの領国を守り抜くため、様々な策をめぐらしていく。

・甲賀から鉄砲鍛冶を招き、常備兵に銃を配備させた
・元武士で農学者・松浦宗案を招き農学研究に務めた

当時から火縄銃に対する将来性は多くの戦国大名が目をつけていた。しかし当時の部隊の銃配備率が10%~20%あれば優秀な部隊と言われてた時代、清良の軍における銃配備率はなんと100%。これは全戦国武将中トップである。三間は3つの村からなる2000石程度の小さな領地であり、率いる兵も300人から500人程度であったが、巧みなゲリラ戦術と銃装備によって兵数が10倍以上の大軍とも戦うことができた。

また、農学方面でも目覚ましい才覚を発揮した。自ら田畑を耕し、その年の稲の実り具合を調査した。また、実り具合から臨機応変にその年ごとに稲の収穫時期を農民に指示した。あえて収穫時期を早めることで、刈田による被害を防いだり、農民兵を増やして他国の軍に備えることができた。また飢饉の際には米倉を開放し、領地から餓死者を出さないように務めた。清良の農業に対する取り組みは後に日本初の農学書である「清良記」にまとめられることになる。



その武名は四国どころか本州にも轟き、中国を代表とする戦国大名・毛利元就も清良を高く評価し毛利氏の援軍として中国地方を転戦した。


毛利









時しばらくして














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永禄11年(1569)一条家の家老・土居宗珊が一条兼定に誅殺される事件が起きる。
この事件は、ある村娘に一目ぼれし政務がなおざりになっていた兼定に対して宗珊が諫言したところ逆上した兼定に上意討ちされ、一条家の行く末を案じた一条家臣らがこの事件を機に兼定を主君押し込めしたと言われている。しかし宗珊は長宗我部家からの調略を受けていたともされ真相ははっきりとはわかっていない。




とにもかくにも家臣の信用を失った兼定は失脚、大友氏を頼り一時亡命するが、天正3年(1575)には大友氏の助けを借りて再度土佐国に侵攻する。長宗我部元親はこれを迎え撃ち、わずか1日で一条軍に勝利する(四万十川の戦い)この戦いで、長宗我部家は土佐一国の平定に完了し、西園寺領は今度は長宗我部軍の侵攻をうけることになる。

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長宗我部家は半農半兵の武士・一領具足の下に運用された強力な組織で「死生知らずの野武士なり」とも称される。しかし十数回に及ぶ長宗我部と清良との戦いにおいて全て退け、岡本城の戦いでは長宗我部元親の家老である久武親信を討ち取っている。

天正12年(1584)主君・西園寺公広が長宗我部元親に降伏。翌年には豊臣秀吉の四国攻めによって小早川隆景に降伏。岡本城の戦い以降、清良が守る三間の地が戦乱に巻き込まれることは無かったが天正15年(1587)公広が秀吉家臣に暗殺されたため西園寺家が滅亡する憂き目に遭うと、清良は主家への恩から隠居し帰農する。

清良の武勇・知略は天下に知られており、小早川隆景は「清良を五か国の大将にすれば天下を統一できる」と褒め称えた。当時の宇和島藩主であった藤堂高虎は度々清良に仕官の誘いを出したが、清良はことごとくこれを断っている。戦乱の世において故郷の平和を守るために戦ってきた清良にとってもはや武力による統治は必要としていなかったのかもしれない。その後も清良は一百姓身分として江戸時代まで生き、泰平の世になって久しい寛永6年(1629)84歳で亡くなった。

彼の死後、子孫や家臣らの申請によって京都から「清良明神」の神号を与えられ清良神社に祀られた。
名だたる戦国武将を相手に故郷を守り抜き、領主の立場を捨ててまで領民たちと生きることに決断した武将。彼の生き様は本当の意味で「殿」であったのではないだろうか。







土のさむらい (くもんの児童文学)
岡本 文良
くもん出版
1996-12-01